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0c28f9a2
anonymous
2023-02-11 02:46
- >>51273c84
この集合宇宙のゲームと様相とは、生命のセータとMESTの戦いであり競争である。生命とMESTは、その起因においては、生命が主でありMESTが従である。MESTは本来、生命の奴隷である。しかし、生命は、いつしか自身がMESTの奴隷であるかのような見せ掛けを信じるようになってしまった。その信仰(アービトラリー)の思想的表現が唯物論である。
生命及びアートマン(セイタン)は、そのゲームにおいて、コスモス(宇宙・自然)及びMESTの支配・征服・統制を志向している。言い換えるなら、生命の活動とは、MESTの無秩序(≒混沌)にセータの秩序(≒蘇生)をもたらすことである。なぜなら、MESTの征服こそが生命の自由だからである。生命における最も強力かつ根本的な生存のダイナミックとは、自由へと向かう衝動である。これが、生命にプログラムされた、生命の根本的な行動原理であり行動目的である。
自然界や自然法則の支配・征服・統制と言うと、エコロジーの志向とは反するのではないかと思われるかもしれない。思想的な系譜としてはその通りである。しかし、これはダイナミクスの最適解というエシックスの主題と汎決定という概念を用いることで、生命・アートマン・セイタンの自由とエコロジーの追求は両立可能なゴールとなり得る。
唯物論は、生命・アートマン・セイタンは自然界及び自然法則を越えることはないこと、つまり、私たちはコスモス・自然界の奴隷であることを、繰り返し私たちに教えるものだ。物質は、決して物質を越えることはできない。「物質が思考している」と説く唯物論の下では、私たちの思考でさえ物質(すなわち肉体の脳)の産物であるのであり、思考さえも物質の偶発的産物なのであるから、私たちの主体たる意識は幻想であり、自由意思も選択の自由もないという帰結に至る。唯物論の世界では、私たちは、ただMESTの気まぐれな運命に翻弄されるだけの無力な存在である。
しかし、それは誤りである。サイエントロジーに限らず、ゴータマ・シッダールタに極まるインドの哲学及びヨーガの精神的実践、そして老子や仙道の実践者たちは繰り返し、そのことを教えてきたのだ。
私たちはコスモスの協力者として生まれたのではない。私たちは、自然の競争相手(ライバルであり敵)として生まれたのである。私たちは奴隷たるコスモスの主人である。しかし、無明によって自らを縛りつけているのである。生命の唯一の目的は、主体である自分自身客体であるコスモスの主とならせることである。主体を強くすることである。それによって、有限なるコスモスはあなたを支配することをやめるであろう。すなわち、自然法則という効力(MESTの合意)が無効化されるであろう。
「それぞれのアートマンのゴールとは、完全なる自由、コスモス(自然)の支配すなわち物質と想念への奴隷状態からの開放である。外なる自然と内なる自然の完全な支配と統制である。」(ゴータマ・シッダールタの滅後に書かれたインド聖典)
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